【めがねと映画と舞台と】第42回『リチャード・ジュエル』
「街中で遭遇したときにイヤな態度だったから、あの人のこと好きじゃない」これは、ある俳優について知人が言った言葉です。具体的になにがあったのかは知りませんが、街中で見かけた短い時間の言動だけで、人の印象は変ってしまうのだなと思ったのを覚えています。では、この知人の言葉を受けて私がこう他人に話したらどうでしょう?「あの俳優、普段は感じ悪いらしいよ」
知人が俳優を目撃したとき、俳優はたまたま疲れていたのかもしれないし、目が悪くて周りが見えていなかったのかもしれないし、考え事をしていたのかもしれません。もちろん、なにかにイライラしていた可能性もあります。いずれにせよ、その瞬間に知人が悪い印象を持ったのは仕方がないことです。でも、その様子を見てもいない人間が「感じが悪い人」と断定するのは乱暴でしょう。
こういったことは、往々にして発生します。些細なきっかけで噂が独り歩きし、思わぬ誤解を受けるという展開は、多くの小説や映画にも登場します。しかも、SNSの普及によってその傾向はより強まったように感じます。人々が一度信じてしまった情報は、たとえそれが間違っていてもなかなか消えてくれない……広がるのはあっという間なのに、訂正するのは非常に困難です。『リチャード・ジュエル』は、実際にあった爆発事件を題材にして、無責任な情報というものがいかにいいかげんで、罪深いものなのかを描いた作品です。
主人公は、警察官に憧れるリチャード・ジェエル。30代で母親と2人暮らしをしている彼は、行き過ぎた正義感ゆえの問題行動が多く、職場を転々としていました。1996年、アトランタ五輪期間中の音楽イベントで警備員をしていたリチャードは、不審なバッグパックを発見します。他のスタッフが軽視する中、彼は「爆弾かもしれないから警戒するべきだ」と主張。調べると中身はパイプ爆弾でした。
爆発を防ぐことはできなかったものの、リチャードのおかげで観客をその場から遠ざけることができ、被害は比較的少なくて済みました。英雄として一気に時の人となったリチャードですが、FBIは彼こそが自作自演の爆破テロ犯人なのではと疑います。地元紙アトランタ・ジャーナルの記者は粘りの取材でFBIの見解を入手。そのスクープにより、リチャードは一転して容疑者扱いされてしまうのですが……。
30歳を過ぎても母親と暮らし、緩んだ体型をした白人男性であるリチャードは、一言でいうとパッとしない外見をしています。多くの人は彼を最初からバカにしてからかいます。しかも、少しいきすぎてしまう性格も災いして、うとまれがち。もちろん恋人もいませんし、いかにも誤解されやすいキャラクターです。
FBIは、彼の風貌や、第三者が語るエピソードからリチャードを容疑者とみなしますが、確証はなにもありません。それなのに、ひとつのスクープ記事が出ただけで、一瞬にして世間はリチャードを犯人だと決めつけるようになってしまいます。家の周りには常にマスコミが張り付き、プライベートはゼロに。母親も家から出られない状態が続き、メディアはリチャードについてあることないこと書き連ねます。しかし、リチャードには心強い味方がいました。
それは、リチャードが以前勤めていた職場で知り合った弁護士ブライアンでした。英雄扱いされていた際に舞い込んだ本の出版話を相談するため、ブライアンに再び連絡したリチャードは、自分がFBIに疑われていることを察するとすぐに彼に助けを求めたのです。
自分のやり方を貫くブライアンは弁護士事務所を辞め、独立して個人で仕事を請け負っていました。比較的ラフな服装にめがねをかけた姿で行動するブライアンは、いつでも自然体。久しぶりにリチャードと顔を合わせた彼は、まず目を見据えて「君は爆弾犯ではないんだな?」と尋ねます。そして、「違う」というリチャードの答えを信じてからは、一度も疑うことなく無実の証明に向けて邁進します。
公権力への憧れから、FBIの立場にも理解を示して協力しようとするリチャードにイライラしながらも、ブライアンは必死で彼を守ろうとします。リチャードの母親にカメラの前で語らせる場を設けたり、自身もテレビ番組に出演したり、不正確な記事を掲載した新聞社に抗議に行ったり……。ブライアンには、ハリウッド映画によく出てくる敏腕弁護士といった風情はまったくありません。シンプルな細いフレームのめがねの奥のまなざしは優しく、ぶっきらぼうで口は悪いですが、愛と信念に溢れています。
ブライアンのめがねは、まるで真実を見極める装置のようです。弁護士事務所の清掃人として働いていたとき、ブライアンだけが自分を同じ人間として扱ってくれた、とリチャードは語ります。不確かな噂やメディアに踊らされる愚かな人間たちの中で、ブライアンだけは自分の判断を最後まで信じ続ける力を持っていました。
愚かな大衆を誤った方向に扇動した新聞記者や、強引な捜査をするFBIの描き方が一面的だと感じる部分もありますが、リチャード・ジュエルという人間が根拠もなく疑われ、人生を壊されかけたという過去は事実です。今年、アトランタ五輪から6回目のオリンピックが東京で開催されます。あれから24年も経つのに、相変わらず人々は面白がって誰かの情報を根拠なく垂れ流し、デマを平気で拡散しています。今年90歳をむかえ(5/31に90歳をむかえる)、今なお新作を作り続けているクリント・イーストウッド監督が鳴らしている警鐘が、多くの人に届くことを願います。
映画『リチャード・ジュエル』
監督/製作:クリント・イーストウッド
原作:マリー・ブレナー、バニティ・フェア 「American Nightmare:The Ballad of Richard Jewell」
脚本:ビリー・レイ「キャプテン・フィリップス」
製作:ティム・ムーア、ジェシカ・マイヤー、ケビン・ミッシャー、レオナルド・ディカプリオ、ジェニファー・デイビソン、ジョナ・ヒル
出演:サム・ロックウェル(「スリービルボード」(18))、キャシー・ベイツ(「ミザリー」(91))、ポール・ウォルター・ハウザー(「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」(18))、オリビア・ワイルド(「トロン:レガシー」(10))、ジョン・ハム(ドラマ「MAD MEN マッドメン」(07‐15))
配給:ワーナー・ブラザース映画
テレビ局で営業・イベントプロデューサーとして勤務した後、退社し関西に移住。一児を育てながら、映画・演劇のレビューを中心にライター活動を開始。ライター名「umisodachi」としてoriver.cinemaなどで執筆中。サングラスが大好き。