あなたの変化に、そっと寄りそう

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巨大めがねオブジェの会社 ハセガワ・ビコー社長インタビュー〜社長の人生編〜

巨大めがねオブジェの会社 ハセガワ・ビコー社長インタビュー〜社長の人生編〜

| めがね新聞編集部

自身でアイデアを出し、図面を描いて、製品を作り上げる──創業以来40年、ハセガワ・ビコーの長谷川珪三社長は革新的な企画でめがね業界に新しい風を送り続けてきました。

今回はそんな長谷川珪三社長の、波乱万丈の人生についてうかがいました。

アイデアが湧くのは寝ているとき

図面を描く技術はどこで学ばれたんですか?

長谷川珪三社長工業高校の機械科で学びました。中学生の頃は音楽が好きで、国立に住んでいたこともあり音大付属高校を希望したのですが、先生に「あそこはお前みたいな貧乏人がいくところじゃない」って猛反対されたので諦めて工業高校に進学しました。

高校卒業後、岩崎電気に入社されたんですか?

長谷川珪三社長そうです。入社後一週間した時に色々な電機メーカーも出している、防犯灯設計コンクールというのがあって。上司に相談しようと思ったけど、「10年早い」って言われてしまうのがわかりきっていたから、家に帰って図面描いて勝手に提出したんですね。

1ヶ月経ったころに技術の部長に呼び出されて…何かやらかしたかと思ったら「バカヤロウ、やらかしたんじゃない。技術部のお前の先輩十数人が応募して、誰も入選しないのにお前のだけ入選したんだよ」って。翌月賞状いただきました。今でもドラフターの上に掛けてあります。

すごいですね!

長谷川珪三社長それが昭和36年、18歳のときですね。上司に製品化しろと言われて、やったことなかったから断ったんですが、「賞がもらえるんだから出来ないわけない」って押し切られて。しょうがないから図面を描いて金型屋さん、プレス屋さん、成型屋さんを呼んでもらいました。だけど、図面出すと必ず「この図面のものは作れませんよ」って言われてしまう。作りようのない図面を描いていたんですね。外注先全部回って、1年半かけてやっと製品にしました。

それでも実現させたんですね。

長谷川珪三社長そんなわけで、岩崎電気には私の特許が30くらいありましたね。もちろん昔なので特許は切れていますけど。

アイデアが湧くタイミングとかはあるんですか?

長谷川珪三社長いまだになんですけど、よく居眠りをするんです。20歳のときも図面を書きながら、居眠りしてしまったんですね。横にいた同期も一緒にだったんですが、部長が同期にだけ「顔洗ってこい!」って怒鳴るんですよ。同期は「長谷川も寝ています」って言うんですが、部長は「長谷川は寝かせておけ!あいつは居眠りした後、必ず良いアイデアを持ってくる。寝ながら考えているんだ」って(笑)。

寝ながらアイデアが出てくるんですね!

長谷川珪三社長社員にも寝るときは必ずメモを置いて寝ろと言っています。「夢の中で何か思い浮かんだアイデアがきっとあるだから、そのアイデアを書き留めておきなさい。その時にメモしないと忘れてしまうから」と。僕は20歳から寝る前にはメモ用紙をそばに置いて寝ています。製品のほとんどは夢の中で浮かんだアイデアです。

事故で九死に一生を得る

岩崎電気はどうして退職されたんですか?

長谷川珪三社長家庭の事情でどうしても辞めざるを得なくなってしまったんです。退職後、ほぼ強制的に小岩にある義理の兄(姉の嫁ぎ先)の時計屋で働くことになり、国立でフジヤ時計屋の支店という形で小さい時計屋を始めました。そこで、誰にも教わらないのに、時計の修理やメガネの検眼をやらなきゃいけなくなりました。

大変ですね…。どうでした?

長谷川珪三社長面白い話があって、ある日「どこへ持っていっても直らない置き時計があるんだけど直してみる?」って言われて、やったことなかったけどしょうがないからやってみたんですね。

バラしながら取り敢えず図面を描いて、全部バラしたらアルコールで洗って、減っている部分は少しだけ研いで、また図面見ながら組み立てて。それで渡したら「あんたすごい腕だね。どこでも直らなかったのにちゃんと直ったよ」って言われました。

未経験なのに!?すごいですね。ずっと国立でやられてたんですか?

長谷川珪三社長小岩で姉夫婦が倒れて入院しちゃったので、国立のお店を閉めて小岩に戻りました。その後、義理の兄が社長で僕が専務になって、宝石の専門店をやり始めたんです。

昔は機械でなく手作業だったので、レンズもフレームも今の3倍の値段。お客さんが1人でも来れば食うのに困らなかったんです。それがこの先簡単に作れるようになって安いめがね屋さんが増える。時計も時代が変わって、クォーツになって修理も減っていくだうと。これからはそういう時代になると考えて宝石にしました。

時計屋さんで、宝石も売っていたんですか?

長谷川珪三社長そうです。そんななか31か32歳くらいのときなんですけど、車でお客さんの所へ向かっている最中に疲労からくる貧血で意識不明になって、マイクロバスのスペアタイヤに突っ込んでしまいました。ダンプカーだったらとっくに死んでいましたね。車はめちゃくちゃでしたよ。

生きててよかった…。

長谷川珪三社長顔は傷だらけで、左目は潰れて。突っ込んだ瞬間にもう意識がなくなりましたからね。この話を始めると、明日の朝になってしまいます(笑)。病院に運ばれて、意識はあったのですが血圧が下がり始めて、麻酔無しで足切ってシリコンのチューブで繋いで輸血もしました。

九死に一生ですね。その後、独立されたんですか?

長谷川珪三社長治ってきた頃、ある人から「あんたはこんな所で宝石を売っている人間じゃない。会社を始めな。あんたなら絶対にものになるよ」って言われて、専務と一緒に始めたのがこの会社です。35歳でした。

僕はついているんですよ。お金で全く苦労したことがないので。最初の2〜3年は専務のお金でやっていました。その後、赤字になったことはありませんね。税務署にも「江戸川区内で30何年間赤字になっていない会社は少ないよ」って言われたことがあります。

世界中どこにもない物しか作らない

巨大めがねオブジェの会社 ハセガワ・ビコー社長インタビュー〜社長の人生編〜

最初は何を扱っていたんですか?

長谷川珪三社長一番最初はローグラス(ハセガワ・ビコーが開発した老眼鏡)です。福井のプラスチックのフレームのメーカーさんに外側を作ってもらって、レンズは検眼用のガラスのレンズを玉磨り機で削って、温風機で温めてレンズを入れて作りました。

最初からオリジナルなんですね。

長谷川珪三社長いい度胸しているでしょう。あとで自分でもぞーっとしましたよ。(笑)

慣れた宝石とかからかと…。

長谷川珪三社長最初は宝石とめがねに関わることをやろうと思ってたので、社名の“ビコー”というのは美術と光が由来なんですけどね。

その後、シリコンパッドを作られたんですか?

長谷川珪三社長そうですね。そのためにシリコンの製造をしていた信越化学に行ったんです。シリコンというのは工業材料で日常品での使用は前代未聞だったので、「変わった人ですね」って言われました。

岩崎電気にいたとき、絶縁体としてシリコンをいっぱい使っていたんです。その頃から「めがねというのは何でこんなにガチガチなんだろう、もっと柔らかくて肌ざわりの良いものにすれば良いのに」って考えてたんですね。それで、思いついたのがシリコンパッド。

それを使ってセイコーさんがタッキーニというブランドを立ち上げて、バッドから汗止め、モダンまでみんなシリコンで作りました。そしたら、そのタッキーニがすごい売れて。

めがねで一番重要な、顔に当たる部分ですもんね。

長谷川珪三社長タッキーニで使ったら、ニコンさんから「うちでも使いたい」って話がきて、それからHOYAさんからもお話をいただいたんです。

ハセガワ・ビコーを大きくしたのはシリコンパッドなんですね。

長谷川珪三社長シリコンパッドを作り始めたころ僕の話をよく聞いてくれていた、パリミキさんの仕入れの課長と展示会で15年ぶりにお会いしたら、「会社らしくなりましたね」って言われました(笑)。

どうして今の技術以上のものをやろうと思ったんですか?

長谷川珪三社長単純です。「世界中どこにもない物しか作らない」っていう主義なんです。同じものを作って競争するのは嫌い。そこまで根性据わってないんです。負けるから(笑)。

ブルー・オーシャンですね。

長谷川珪三社長ただし人が乗るものと食べるものだけは絶対に作りません。不良品を作ったら人が死ぬから。だからといって不良品を作っていいということではないのですが(笑)。

シリコンパッドや検眼用のトライアルフレームも「いままでにないものを作ろう」という感じだったんですか?

長谷川珪三社長当時、検眼用のトライアルフレームは技術屋さんが関与していなくて、外国の真似で作っていたんです。良いものがなかったので、「じゃあ作ろう」って初めたのが20年くらい前です。

出来たときの喜びはひとしおですよね。

長谷川珪三社長そうですね。ただ、博打と同じで中には売れないものもあるんですけど。だから僕、博打はやらないんです。

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会社をいかに保っていくか

売れたときはもちろん嬉しいと思うんですけど、売れなかったときはそこから改良を重ねていくんですか?

長谷川珪三社長そうです。諦めるのも早いですよ。2年やって「ああ、もう駄目だな」って思ったらやめてしまいます。

その線の引き方はどういう風に決めるんですか?

長谷川珪三社長欠点が明確になった時点かな。僕が一番お金を投資してやめてしまったのはスタンドグラス。 作ったんですが僕の売り方が良くなくて売れなかったんですけど。

商品と売り方、両方揃って初めて…というところもありますよね。

長谷川珪三社長うちのある社員が「僕たち営業は営業の力で売っているんではないんです。うちの会社はモノが良いから売れるんです。同じものを作る会社がないから良いんです」って言ってて、なかなか良いことを言うと思いましたね。自分が売ったみたいにのぼせている人間も多いなか、そう思うのは良いことですよね。

これからの夢はありますか?

長谷川珪三社長ここまでやれればもう十分です。あとは継いでくれる人がどうやってくれるか。

会社自体をどうしたという想いはありますか?

長谷川珪三社長これ以上大きくは絶対にしない方が良いですね。いま、日本の会社はいかに保っていけるかです。売上自体は下がっていたとしても利益が少しずつでも出ている状態とかね。そして社員がきちんと生活できることが大切です。

あとは、働く人たちがアイデアを出し合って作ればそれで良いですね。ただおそらく「デカイことはやるな!」って言うとは思います。今の資本主義のなかで会社を大きくしようと考えたら潰されてしまいますから。

小さい会社ほど立派だと思います。一流起業の雇われ社長は責任取りません。だけど、小さい会社の社長は全部責任取ります。日本の町工場のモノづくりの技術がなかったら、今の日本はなかった。外注先の町工場でもものすごく腕が良い人が沢山いるんです。そういう会社にしっかりと日本を引っ張っていってほしいと思っています。

良いお話が聞けて良かったです。ありがとうございました!

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人気商品シリコンパッド「セルシール」

会社の立ち上げからオリジナル商品で勝負を始めた長谷川珪三社長。モノづくりやサービスが発達した今でこそそういった会社も増えてきてはいますが、40年前となるとそれがどれだけ大きな挑戦だったかは想像に難くありません。

ちなみに「珪三」の「珪」、現在では常用・人名漢字外になっているこの漢字ですが、シリコンの原料である珪石の「珪」なんです。世界初のシリコンパッドを作った長谷川社長の経歴を考えると…不思議な縁を感じずにはいられませんよね。

改めて長谷川社長、貴重なお話をありがとうございました!

ハセガワ・ビコー社長インタビュー

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