【めがねと映画と舞台と】第32回『プラトーノフ』
大学時代の1期上の先輩に、とんでもなくモテる女性がいました。私が通っていた大学では入学時に選択した第2外国語別にクラス分けがあり、まずはクラスごとに2年生が1年生のオリエンテーションをするという慣例がありました。
彼女はオリエンテーリングのコアメンバーではなかったので、私が彼女の存在を知ったのは入学後しばらく経ってからのことでした。オリエンテーションでお世話になった先輩たちと談笑していると、急に先輩たちの表情が変わり、その場にいるほとんどの男性が挙動不審になったのです。
先輩たちの目線の先には小柄で柔らかい印象の美女が立っていました。こちらに向かってにこやかに手を振って、またどこかへと歩いて行った彼女の姿を先輩たちはずっと目で追っています。
怪訝な顔をしている私の様子を見て、ひとりの先輩が教えてくれました。クラスの男子のほとんどが彼女に片想いをしていたこと。彼女が同級生の告白を悉く断ったこと。それを知って自信をなくしつつ諦めきれない者もいれば、めげずに告白を繰り返している者もいること。彼女を巡って、いまだに口もきかない同級生同士もいること。
3年生になり、私は彼女と同じ研究室に進みました。初めてきちんと相対した彼女は、優しくて気配りができて、静かなのに決して地味ではなくて、どこか抜けている部分もあって。
「ああ、これが本当にモテる人なのか」と思ったことをよく覚えています。
世の中には、ただそこに存在しているだけで強烈に他人を惹きつけてしまう人間がいます。間違いなく彼女はそんな人間で、結果として1年生のときに周囲を大混乱に陥らせたのです。
チェーホフの処女戯曲を森新太郎が演出した『プラトーノフ』の主人公プラトーノフもまた、そんな人間です。幕が開くと、そこはロシア将軍の未亡人アンナの屋敷。神々しいほどに美しいアンナの元に、ひとりまたひとりと人々が集まってきます。
軽快で皮肉な会話が続く中、客席を通ってプラトーノフが登場します。妻子持ちの小学校教師であるプラトーノフは、ハンサムで飄々とした男。高い教養と抜群の頭脳の持ち主ですが、絡んだりからかったりしてすぐに相手を怒らせてしまう厄介者でもあります。
お金はないし、面倒くさいし、酒に飲まれるし、なんだか格好もだらしがないのですが、プラトーノフは異性から異様にモテる男です。アンナは内心プラトーノフを手に入れたくて正気を失いそうになっているし、妻サーシャもプラトーノフなしでは生きていけないほどに彼を愛しています。また、かつてプラトーノフの恋人だったソフィヤは、アンナの義理の息子の妻としてプラトーノフと再会したことで激しく動揺。さらに、プラトーノフは面白半分にサーシャの弟が密かに恋する女学生のマリヤを誘惑します。
こうして、4人の女性がプラトーノフに恋焦がれるという図式が出来上がりました。(ロシア文学は人間関係が複雑!)
大学時代の彼女が1年生のときにクラスを混乱させたように、プラトーノフも周囲に混沌の渦を巻き起こし、果ては自身もその渦に取り込まれてしまいます。しかし、本作は悲劇ではありません。いえ、ストーリー展開としては間違いなく悲劇なのですが(それもかなり悲惨なタイプの)、かなり「笑える」作品に仕上がっていました。
1幕終わりで誤った選択をしたプラトーノフは、2幕で激しく後悔します。どういうわけか女性たちから愛されてしまうことを嘆き、自分の人生の立ち行かなさや行き場のないプライドに苦悩し、下着姿で床をのたうち回るプラトーノフ。その姿は哀れで滑稽です。私は彼に同情しつつも、心のどこかで「ざまあみろ」とも思いながら笑っていました。人間とは残酷なものです。
『プラトーノフ』には、めがねをかけた人物がふたり登場します。ひとりは、アンナに想いを寄せて金銭的な援助を申し出ているポルフィーリ。そしてもうひとりは、プラトーノフにからかわれてキスされてしまう生真面目な女学生のマリヤです。ふたりの共通点は、超がつくほど固い性格と、片想いの相手から軽視され全く相手にされていないこと。特にマリヤは、最初から最後までコミカルな演技を貫いて客席の爆笑を誘っていました。
『プラトーノフ』におけるめがねキャラは、いわば道化です。道化とは、なんと可笑しくも悲しい存在なのでしょうか。
1幕で潔癖さからプラトーノフを拒絶していたマリヤは、プラトーノフの気まぐれな手紙を読んだことで、自分は彼に愛されていると勘違いしてしまいます。気持ちが暴走したマリヤが再びプラトーノフの前に現れたとき、マリヤの顔にめがねはありませんでした。めがねを外したことで、マリヤは自らの欲望を解き放したのかもしれません。でも、やはりマリヤは道化のまま。プラトーノフは彼女のことをこれっぽっちも考えてなどいないのです。
クズのプラトーノフも、プラトーノフを愛してしまう女たちも、そんな彼らに振り回される男たちも、『プラトーノフ』に登場する人間たちはすべからく愚かです。誰も救われず、誰も報われません。強い自意識と欲望に翻弄され、残酷な運命に身を委ねるしかない人間たち。のたうち回るプラトーノフや、道化でしかないマリヤを見て笑いながら、「私だって彼らとちっとも変わらない」ということを痛感せずにはいられません。チェーホフが描く人間模様は残酷で、不条理で、とても現代的なのです。
舞台『プラトーノフ』
作:アントン・チェーホフ
脚色:デイヴィッド・ヘア
翻訳:目黒 条
演出:森 新太郎
出演:藤原竜也、高岡早紀、比嘉愛未 他