【メガネガコンプレックスデイ】第6回「見える・見えない」

「幽霊なんて目に見えないものを
信じるなんてどうかしている」

とある渋谷のバーの片隅。
ひとりグラスを傾けていた私の耳に
無邪気な男の声が響く。

「だって、見えないってことは“ない”んだろ?
“ない”ものに対して怖がったり、その存在を信じるなんて
ありえないね」

見えないから、ない。
当たり前といえば当たり前だが、
「見えない=ない」と単純に片付けて良いものか。

そもそも私たちの視界は
全方位360°ではないし、
視認できる情報にも限度がある。
それなのに自分の視界に写るものを
存在のすべてだとするのは
過信しすぎじゃないかと思ってしまった。

チラと横目をやると
そんな高慢ともとれる発言をしていたのは
いわゆる「イケメン」の部類に入るであろう
30代前半くらいの見目の男。

なるほど、その自信たっぷりの
喋り口調や表情から見るに
これまで相当モテてきたのだろう。
明らかに恋愛ヒエラルキー上層階級といった感じで
正直少し鼻についた。

大抵、人は見えないものや
把握できない「何か」に対して
不安や恐怖、畏れを抱く。

それは幽霊や怪奇現象といったものから
地球上や宇宙空間での自然現象、
そして他人の感情や思考といったものに対しても
同様だと思う。

得体のしれない「何か」に対し
不安や恐れを感じるからこそ
そこに興味や関心が生まれる。

たとえば恋愛。
トキメキや胸の高鳴り、
もどかしいような恥ずかしさ、
そういった自分自身でもうまく説明できないし
一歩間違えると病的症状にも思える
「なぜだかよく分からない」身体反応に対し、
その原因を探り、その状況を克服しようとする過程で
自分を見つめ、相手を見つめ、
そこに横たわる
特別な感情を認識する・・。

よく分からないからこそ
悩み、追求したくなって
そこに起こった事象や自分の感情、思考を見つめ
はじめに抱いていた不安や畏怖を解消しようと
さまざまな試行錯誤を繰り返す。

そうやって
言語も科学も、音楽やアートをも。
ありとあらゆる人間的営みは
発展を遂げてきたのではないだろうか。

だからこそ、
「見えない=ない」とするのは
「見えない」ものを意図的に
「見ない」という選択をしたように
思えて仕方がない。

見ることは想いを馳せること。

きっと彼は
自分以外の何にも
想いを傾けたことがないのかもしれない。
よく見えない、よく分からない「何か」を
見ようとしたことがないのだろう。

そんなことを考えながら
ふと彼に質問を投げてみる。

「その目はコンタクト?」
「いや、裸眼ですよ。昔から視力は良くて」

ああ、やっぱりね!

【イラスト】 P:ggy(ぴぎー)