【めがねと3回となえたら】「glamour」としてのめがね
先日、めがねが好きな美容師さんとお話しする機会があった。
私が「めがね新聞」というサイトで記事を書いているといったら、担当の美容師さんがお店で一番めがねが好きな男の子を連れてきてくれた。
最初はどんなめがねが好きなのかを話してくれた。どうやら彼はイギリスに好きなブランドがあるらしかった。それから私は髪を洗いに移動したので、男の子は一旦奥に戻ってしまった。でもその後、雑誌を持ってきてくれたときに、男の子は私にそっと、何でめがねが好きになったのかを自分から教えてくれた。
男の子は自分の顔が薄いから、めがねを足すことですごく顔のバランスがよくなると感じているのだと言った。私は「なるほど、めがねにはそういう使い方があるのか」と思った。私の目から見て、その男の子は特段顔が薄いというわけではなかった。どちらかというと色素が薄いというような印象だった。でも、彼の美意識にとって、彼自身の顔には何かが足りなくて、それを完成させるものが「めがね」だったんだろう。
私も近視でめがねを使っている。私にとって「めがね」は…視力矯正以外に何か意味をもっているのだろうか…とふと思った。
私にとってめがねは、「めがねをかけている今の私は『見る側』であって、『見られる側』ではありません」というアピール的側面があるかもしれない。「見られる」ことから自分を守る一種の防御装置だ。
コンタクトをつけると顔がすべてさらけだされてしまうから、外出する際、女性の私は化粧をしないといけないように感じてしまう。そのときは「見られる存在」としての私を意識している。けれどめがねをかけると、何となく私の顔にひとつフィルターをかけているようで、私の顔をぼんやりさせているような気がして、なんだか落ち着く。めがねをかけることによって、「今の私は『見る存在』であって、『見られる存在』ではありません」というメッセージを無意識に出しているところがある。
そんなことを考えていたら、クリストファー・プリーストの『魔法』という小説を思い出した。自分の姿を消すことができる能力をもった人物の話なのだが、それはいわゆる「薬を飲んで透明人間になる」というような能力ではない。登場人物のひとりは、子供のある時期から気配が薄れて人から気付かれにくいようになり、その後不可視化能力を手に入れていく。その「不可視」の描き方がおもしろいのだ。
この小説の英題は『The Glamour』だ。「glamour」とは「1.(神秘的な)魅力、2.(性的な)魅力、3.魔法、呪文」という意味がある。小説では、この「glamour」という単語が「魅力」「魔法」というふたつの意味をもつことに意味がある。つまり不可視とは、目に映ってはいるけれど、脳がその存在を捉えないという意味での「見えない」状態もあるというわけだ。逆に、存在感が薄い人というのは、もしかしたら視覚として捉えにくいのかもしれない。そんなことを思い出しながら、めがねをかけたり外したりしてみた。
私にとってのめがねとは、自分の輪郭をぼんやりさせる「glamour」で、美容師の彼にとってめがねとは、自分の魅力を補強する「glamour」なのだ。
めがねは、人を識別するために重要な部分である顔を覆っていると同時に、「見る」という感覚に携わっている道具でもある。「見る」と「見られる」の間にあるものとしての「めがね」。あなたにとってのめがねには、どんな「glamour」がありますか。