【めがねと3回となえたら】めがねとは体験である
実は先日4年ぶりに新しくめがねを買った。眼鏡ライターの伊藤美玲さんが【伊藤美玲のめがねコラム】で取りあげていたブランドのものだ。私は、衝動買いというものができないたちで、何度もお店に行っては試着を繰り返し、半年かかって購入した。この仕事をしているのに、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。でも、めがねは毎日顔にかけるわけだから、そんなすぐに決定できないではないか。
私はコンタクトも使っている。しかし、なんせ長時間パソコンをみつめ続ける仕事なもので、エアコンのきいた空間で作業を続けた日は、夕方目が死亡している。目がパッサパサ。だから、めがねは私にとって癒しとか救いだ。コンタクトを外して、めがねにすると「生き返る〜」のだ。そんな私には「コンタクトをしてめがね」という選択肢がないので、めがねには近視用のレンズを入れないわけにはいかない。
そんな人にとっての、めがねを買ったときの「試着との差問題」って結構深刻。どうにかできないものか。できあがっためがねを試着したときの、めがねの奥に見える小さくなった目をみつめる悲しさは何とも言えない。普通であれば「うわー‼︎」ってなるところが、あの「何か違う…」がっかり感。この「めがねの試着との差問題」って、解決の糸口はないのだろうか…。
まあ、それは別の記事企画にするとしよう。
今回の新めがねは、前に使用していためがねや現在使っているコンタクトの度数より弱くした。この度数はPC作業の多い私には目が疲れすぎる度数だ、と思っていたからだ。
できあがって試着すると、目がくらくらした。度を「弱く」したのだから、そんなことは起こらなそうなイメージだったのに。遠くを見ると、以前よりぼやけていることに対して思った以上に違和感があった。ぼやけ具合は若干なはずなのに、その違和感たるや相当なものだった。
この新めがねで自転車に乗ることに、いまだに慣れない。多分、自転車で前に走るとき、無意識に遠方を確認するときの指標としている距離があって、この新めがねだとその指標がはっきり見えないのだと思う。その指標の距離を変える必要があるのだろうが、意識的にできるものではないらしい。まあ、身体はすぐ慣れてしまうものだと気長に考えていたが、そのちょっとのことがストレスになっている。そうだ、めがね屋さんに相談に行こう。
そんなことを体験しながら、私はある人の言葉を思い出した。
「私は常々思うのですが、人はそれぞれ違う視界で生きています。しかしながら、相手がどんな視界で生きているのか想像ができないので、みんなが自分と同じ様に見えていると勘違いしがちです。」
めがね新聞にご協力頂いている、めがねの仕事に携わっている人の言葉だ。
私たちは、それぞれが異なる視界で生きている。でも、それは比べてみないとわからない。自分の視界でさえ、よくわかっていないのだから、他人の視界は、その人のそれになってみない限りわからないのだ。めがねの度が若干変わっただけで身体の反応の仕方が変わるのだから、人それぞれ五感に差があると考えると、世界からの刺激の受け方は想像以上に異なるのだろう。とするならば、世界へのアプローチがそれぞれ異なるのはあたりまえのことか。
今後、めがね新聞では「子どもの弱視」や「ディスレクシア」などを取り上げていきたいと思っている。
隣にいる猫と私の視界は異なっている、ということは、めがねを知ることに繋がっている気がするのだ。