めがね男子の為事 File: 003 立石イオタ良二
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働くめがね男子の実態を探る「めがね男子の為事」シリーズ。第3回目はパラリンピック卓球の選手である兄、立石アルファ裕一さんのコーチ兼日本肢体不自由者卓球協会の広報として活動する、立石イオタ良二さんにお話しをうかがいました。
めがねについて
初めてめがねをかけたのはいつですか?
立石イオタ良二中学3年生のときです。見えないという自覚はなかったんですけど、頭がずっと痛くて、すごく眠くて。母親も目が悪かったので、「目からの疲れで頭が痛くなってるんじゃない?」って言われてめがね屋さんに行くことになりました。
そこで初めがねを?
立石イオタ良二はい。視力検査をして、目が悪いと言われてめがねを作りました。健康診断のときは問題なかったんですが、急に悪くなったんです。
めがねをかける前も卓球をやられていたんですよね。ピンポン玉は見えました?
立石イオタ良二見えているつもりでした(笑)。
そのときの視力はどのくらいだったんですか?
立石イオタ良二その時は、0.6〜0.7くらいでした。まぁまだ見えるくらいです。
「めがねが大好き!」と聞いたんですが、どこが好きなんですか?
立石イオタ良二おしゃれアイテムとしてですね。高校のときから。高校は寮で私服を着る機会がなかったのでおしゃれはできなかったんですけど、奇抜なめがねを買いました。一時期、縁が太くて細長いメガネが流行ったじゃないですか。それのエメラルドグリーンのめがねです(笑)。
大学になっても?
立石イオタ良二大学のときはお金がなかったので、伊達めがねを100円ショップで買って、レンズを抜いてかけたり。もう、ずっとめがねが好きでした(笑)。
100円ショップのは安いレンズだから、ない方がクリアに見えますよね。
立石イオタ良二ですよね!眼が疲れる気がして。
こだわるめがねのポイントは?
立石イオタ良二上品に見えるのが良いなって。太い感じではなくて…ちょっと金が入っていたりする感じです。
めがねをかけるときのコーディネートはどんな感じですか?
立石イオタ良二シンプルが良いなって思います。黒のモノトーンとか、あんまり柄物じゃなくて。卓球の選手のときはずっとコンタクトだったんですが、そのときもめがねが好きで伊達めがねを私服でかけていたんです。めがねをお洒落ポイントにしたくて、服装はシンプルにしていました。
イオタさんは日本肢体不自由者卓球協会の広報として活動されていますが、障害者の方とめがねの関係はどういうものなんでしょうか?
立石イオタ良二三半規管に障害を持っている人たちは、視野の問題で必ずめがねをかけないといけないですね。障害によって視力が悪い方もいますし、障害者アスリートでめがねをかけている人もたくさんいます。
そういう人たちが求めるめがねって何でしょうか?
立石イオタ良二スポーツに適しためがねがあると良いです。軽かったりとか。ただ、パラリンピックや大会に出るのに費用がかかるので、資金の問題でめがねを買うのも大変とかはありますね。
めがねをして卓球している人はいます?
立石イオタ良二けっこういます。ずれなくなるめがねとか、メガネバンドしたりとか。卓球は視力がすごく大事なんですよ!動体視力ですから。
仕事について
お兄さんがパラ卓球の選手ですよね。ご兄弟で卓球をされて育ったんですか?
立石イオタ良二はい、僕は小学5年生から卓球をやっています。初めたきっかけは兄でした。
兄は先天性の障害を持って生まれたので、小学校のときに初めて健常者に勝てたスポーツである卓球に夢中になって。あるとき卓球クラブのレギュラーとして、九州の大会に行ったんです。父と2人で。帰ってきた兄がしてくれたのが「新幹線に乗って駅弁買ってお父さんと食べた」「漫画を買ってくれた」という話。兄は試合よりもそういうストーリーがすごく楽しかったと言っていました。
僕はそれがすごく羨ましくて、「卓球をはじめればお父さんと一緒に旅行に行ける」と思って卓球をはじめたんです。それからはのめり込んで行って、中学3年生のときには卓球が大好きになっていました。
その後も卓球を続けられたんですか?
立石イオタ良二そうです。父と話し合って卓球の道で進学することを認めてもらい、「卓球で生きていこう」と決めて家を出て寮に入りました。本気でオリンピックも目指していて、大学卒業時には卓球で就職することもできました。しかし実家の額縁屋の仕事もあったので、父に「帰ってきて欲しい」と言われて帰ることになったんです。
実家のために、オリンピックの夢を諦めたんですか?
立石イオタ良二そうですね。メーカーさんや地元の卓球センターに応援してもらいながら、変なプライドというか「家業は手伝い。本当は卓球選手になりたい」という思いで2年位は意固地になって続けていました。そんなとき、兄が本気でパラリンリックを目指すために会社を辞めることになったんです。
パラリンピックのために会社を退職されたんですか?
立石イオタ良二海外遠征とか、パラリンピックに出るには莫大な費用と時間、練習量が必要なんです。会社に勤めながらでは満足に練習ができないんですよね。そこで兄はパラリンピックを本気で目指すために、大学に入ることになったんです。
それはいつ頃ですか?
立石イオタ良二ちょうどロンドンオリンピックの年でした。兄は「出たいのに出れない」という想いを抱えていて。大学で4年間練習を積んで次のリオを目指そうということになりました。
そこからお兄さんのコーチへ?
立石イオタ良二はい。自分の卓球はもう完全に終わりにして、オリンピックではないけど「コーチとしてパラリンピックに出たい」という新しい卓球の目標ができたんです。それで指導者の資格も取って。
すごい決意ですね。
立石イオタ良二兄が会社を辞めるってなったときに、「自分が本当に家業を継いでいくんだな」とすごく怖くなって。実家の額縁屋は2020年にちょうど100周年を迎えるんですけど、そのときの自分の中途半端な状態では発展どころか、自分の代で終わってしまうんじゃないかと思ったんです。覚悟を決めないといけない時期でした。
なるほど…
立石イオタ良二本当は、兄は高校卒業時に大学に行って卓球をやりたかったんですよ。でも大学進学費用を考えたとき弟である自分がレベルの高い私立を志望していたのをわかっていて。僕には内緒で両親に「あいつのほうが(卓球で)可能性がある。俺は就職するからあいつを大学に行かせてくれ」と言っていたらしいんです。
その話を聞いたとき、応援してくれた兄を逆に僕が応援して、コーチとして自分が身につけた技術や知識を兄に全て注ぎながら、二人三脚でパラリンピックに出たいと思ったんです。卓球があって今の人生がある、その卓球に出会えたのは兄のお陰で、恩返しをしながら家族も喜んでくれる。そういうことって普通じゃ絶対にできないなと思ったときに、ストンッと落ちて覚悟が決めれました。
お兄さんが「弟を大学に」と言っていたことを聞いて、どうでした?
立石イオタ良二全部が繋がりました。なんで好きだった卓球で大学に行かなかったんだろうとか。お金のことは気にはしていましたけど、なんでそんなに簡単に諦めてしまうんだろうとか。
パラリンピックに出るのもお金がかかるから…。
立石イオタ良二そうです。兄は高校生の終わりごろに障害者卓球と出会ったんですが、パラリンピックに出るための費用のことを知って「結局世の中カネかよ」って一度卓球を辞めてしまったんですよ。
支援などはなかったんですか?
立石イオタ良二はい。兄と一緒に海外遠征に行くようになったときに知ったんですが、若い選手も年配の選手も、みんな自分たちでなんとか工面して大会に臨んでるんですね。どうにもならないんです。当時は“東京オリンピック・パラリンピック”も決まっていませんでしたし、管轄が厚生労働省と文部科学省で健常者のスポーツと障害者のスポーツで別でした。そもそも日本でのパラリンピックの発展が“リハビリ”という概念から来たもので、スポーツとしてそこにお金をかけられない状況だったんです。
その状況を改善するために家の仕事をしながらコーチをして、日本肢体不自由者卓球協会の広報までされているんですか?
立石イオタ良二そうですね。一番「ちゃんとしないと」と思ったきっかけが、スロベニアの大会で見た両腕がない選手。どうやって卓球やると思います?
ラケットを口にくわえて?
立石イオタ良二そうなんですよ!片足シューズ脱いで足で綺麗にボールを上げて、むち打ちになるんじゃないかってっていうくらい首を振り回して、回転をかけて、スマッシュして。それを見たときに、哀れみでも感動でもないんですけど、もうなんか涙がブァーっと出てきて。
涙の理由というのは…
立石イオタ良二僕は後継ぎ、経営者として動いています。額縁ってモノづくりだから、ITのように一発ってないじゃないですか。そのなかで兄の海外遠征の費用とか、妹や弟たちの学費とかにお金が行くと、僕は働き出してからの11年、一切給料をいただいていないんです。
家族がそうしてくれたので家族のためにお金を使うことには疑問がないんですが、周りの方の華やかなところを見たり、同じ年代の方が何十億稼いでるのを目の当たりにすると、納得はしても社会的劣等感をすごく感じるようになっていたんです。すごいなって思う反面、自分は遊ぶお金がないとか結婚できるのかなとか(笑)。
周りと比べて色々考えてしまっていたんですね。
立石イオタ良二ただ、その選手を見たときにそういう劣等感とか全部吹っ飛んでしまって、「涙が出て『生きてる』し五体満足だし、大好きな卓球に関われていて海外も来れているってヤバくない?幸せじゃん」って思ったんです。ほかにも障害者卓球に来ている各国の選手を見たときに、彼らの生き抜く力っていうのをすごく感じたんですよ。
生き抜く力とは?
立石イオタ良二障害者卓球は健常者卓球とルールは一緒なんです。全く同じ条件で、彼らは手がない、足がない状態で健常者と同じことをやっているんですよ。彼らと同じ世界に生きていると思ったときに、彼らの持っている生きる力って半端ないなって思って。
自分の悩みがちっぽけに見えそうですね。
立石イオタ良二はい。例えばムカついたから刺したとか、親を殺したとか、鬱とか会社が…とか。色々な問題があったときに、障害者の方々の生き抜く力に触れたら何かある前に思いとどまったり、自分も頑張ろうって前向きになれるんではないかと思ったんです。
なるほど。
立石イオタ良二あと、障害者の方は「自分は障害者だ」っていう心の壁を持ってしまうと思うんですね。でも障害者スポーツがそれを乗り越えるきっかけになるんじゃないかと思うんです。だって、障害者アスリートはどの競技の方もみんなめちゃくちゃ明るいんですよ。スポーツに出会って目標や夢を持つことで、自分が超えられないと思っていた壁がいつの間にか壊れる。壁を乗り越えたという経験があるのですごく明るくて、「生きれているだけで感謝だよ」って軽く言ったりとか、自分の障害を個性と捉えて、ネタにしたりもするんです。
強いですね。
立石イオタ良二日本は海外と比べて障害者スポーツが知られていない。でも知られることで障害者の方にとってもそうですし、健常者と障害者の方々がお互いに理解を深めて社会を変えることもできると思うんです。健常者の方が見たら最初はショックかもしれませんが、そこから得られるものも凄く大きいんですよ。
そういった想いで広報をやられているんですね。
立石イオタ良二生まれたときから障害者の兄と一緒に暮らし、同じスポーツを一緒にしていた僕にしか出来ないことがあるんじゃないかって思ってます。まずは知ってもらおうと。
日本肢体不自由者卓球協会の広報になったきっかけは?
立石イオタ良二どの競技団体もなんですが協会として選手を派遣してあげれるお金がないんです。なのでスポンサーをつけたいと考えたんですが、兄個人では難しかったこともあり、まずは日本肢体不自由者卓球協会、つまり日本代表チームにスポンサーをつけることにしました。
そういうなかでちゃんとした枠組みがあったほうが企業さんにもわかりやすいという話になったんです。そこで家族を中心に博多の町おこしとしてやっている“ハカタ・リバイバル・プラン”の中に、スポーツ部を作って任意団体という形で兄の応援をし、協会と任意団体同士で契約をして、協会の広報として動くようになりました。
協会の広報として障害者スポーツの実情を見て、どういう風に感じました?
立石イオタ良二世間の目は厳しいなって思いました。今まで知られてもいない、メディア価値もない。それは結果が出ていないのでしょうがないことなんですが、結果を出すためにはお金が必要だし、とにかく動かないと何も起こらないと思ってやっていました。そんなときに2020年の東京オリンピック・パラリンピックが決まって、これはすごくチャンスなんですよね。
好調ですか?
立石イオタ良二前評判としてはリオが終わって1ヶ月後にはほとんど報道されなくなって。「また下火だね」って言っていたら、オリンピックのみなさんがすごく頑張ってくれて、卓球の視聴率や人気が上がって。パラの方も結果は出していないんですけど、世間もメディアも注目してくれるようにはなりました。スポンサーにという話をしてくださる企業さんも出てきてくれて、「興味をもってもらっているな」というのは感じています。
日本での認知度も問題なんですね。
立石イオタ良二でもパラリンピックは日本が作ったんですよ。パラリンピックの語源なんですが、脊椎損傷の方を“paraplegia”と言うんです。パラリンピック自体はずっと昔から障害者の種目として開催されてきたんですけど、“パラリンピック”という名前がついたのは1964年。
東京オリンピック!
立石イオタ良二そうです。そして、パラリンピックとなって初めて日本に金メダルをもたらしたのって、何の競技だと思います?
卓球!?
立石イオタ良二卓球なんですよ!
すごいですね!
立石イオタ良二卓球は健常者と障害者が同じルールでできるスポーツなんですよ。老若男女、誰でもできて、天候も空間的問題もなくて、このテーブルでもできる。
面白い話で、IT企業のオフィスって卓球台が置いてあるんです。シリコンバレーの投資家たちが、「年度が変わったときに卓球が納入されなかったIT起業は要注意だ」って言うくらい。なんで卓球台を置くのかというと、卓球は反射と反応を繰り返すのですごく脳の活性化に繋がるらしいんですね。脳神経外科の論文も出ていて。日本体育大学の教授と全国の肢体不自由者特別支援学校の校長会の会長が、障害者の子どもたちに奨励するスポーツとして一番仕切りが低くて取り組み易いスポーツも卓球だったんです。
へー!
立石イオタ良二肢体不自由者の支援学校や病院の院内教育に卓球台を設置していくというプロジェクトも、予算の問題はあるものの少しずつ始まっています。そういう意味では卓球というのはすごく良くて、卓球を歯切りにやりたいスポーツの選択もできるようになってくると思うんです。
可能性を知れるということですね。
立石イオタ良二兄も障害をもっていることで「自分は選択とかできない、選択肢がない」と言っていたんです。卓球をきっかけにスポーツができることを知ってもらって、パラスポーツに詳しい人が「あなたの障害だったらこういうスポーツができるよ、やっている人たちいるよ。一回やってみよう」と可能性を広げてくれれば、すごく障害者の方の世界が明るくなって、彼らが社会に出やすくなる。それを見た健常者の人たちが彼らの生き抜く力に触れて勇気がもらえて、すごい相乗効果と相互理解が深まっていって…大げさかもしれませんが、日本の社会が変わるのではないかと思うんです。そういう夢物語を抱いています。
ありがとうございました!