あなたの変化に、そっと寄りそう

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めがね男子の為事 File: 003 立石イオタ良二

めがね男子の為事 File: 003 立石イオタ良二

| めがね新聞編集部

仕事について

めがね男子の為事 File: 003 立石イオタ良二

お兄さんがパラ卓球の選手ですよね。ご兄弟で卓球をされて育ったんですか?

立石イオタ良二はい、僕は小学5年生から卓球をやっています。初めたきっかけは兄でした。

兄は先天性の障害を持って生まれたので、小学校のときに初めて健常者に勝てたスポーツである卓球に夢中になって。あるとき卓球クラブのレギュラーとして、九州の大会に行ったんです。父と2人で。帰ってきた兄がしてくれたのが「新幹線に乗って駅弁買ってお父さんと食べた」「漫画を買ってくれた」という話。兄は試合よりもそういうストーリーがすごく楽しかったと言っていました。

僕はそれがすごく羨ましくて、「卓球をはじめればお父さんと一緒に旅行に行ける」と思って卓球をはじめたんです。それからはのめり込んで行って、中学3年生のときには卓球が大好きになっていました。

その後も卓球を続けられたんですか?

立石イオタ良二そうです。父と話し合って卓球の道で進学することを認めてもらい、「卓球で生きていこう」と決めて家を出て寮に入りました。本気でオリンピックも目指していて、大学卒業時には卓球で就職することもできました。しかし実家の額縁屋の仕事もあったので、父に「帰ってきて欲しい」と言われて帰ることになったんです。

実家のために、オリンピックの夢を諦めたんですか?

立石イオタ良二そうですね。メーカーさんや地元の卓球センターに応援してもらいながら、変なプライドというか「家業は手伝い。本当は卓球選手になりたい」という思いで2年位は意固地になって続けていました。そんなとき、兄が本気でパラリンリックを目指すために会社を辞めることになったんです。

パラリンピックのために会社を退職されたんですか?

立石イオタ良二海外遠征とか、パラリンピックに出るには莫大な費用と時間、練習量が必要なんです。会社に勤めながらでは満足に練習ができないんですよね。そこで兄はパラリンピックを本気で目指すために、大学に入ることになったんです。

それはいつ頃ですか?

立石イオタ良二ちょうどロンドンオリンピックの年でした。兄は「出たいのに出れない」という想いを抱えていて。大学で4年間練習を積んで次のリオを目指そうということになりました。

そこからお兄さんのコーチへ?

立石イオタ良二はい。自分の卓球はもう完全に終わりにして、オリンピックではないけど「コーチとしてパラリンピックに出たい」という新しい卓球の目標ができたんです。それで指導者の資格も取って。

すごい決意ですね。

立石イオタ良二兄が会社を辞めるってなったときに、「自分が本当に家業を継いでいくんだな」とすごく怖くなって。実家の額縁屋は2020年にちょうど100周年を迎えるんですけど、そのときの自分の中途半端な状態では発展どころか、自分の代で終わってしまうんじゃないかと思ったんです。覚悟を決めないといけない時期でした。

なるほど…

立石イオタ良二本当は、兄は高校卒業時に大学に行って卓球をやりたかったんですよ。でも大学進学費用を考えたとき弟である自分がレベルの高い私立を志望していたのをわかっていて。僕には内緒で両親に「あいつのほうが(卓球で)可能性がある。俺は就職するからあいつを大学に行かせてくれ」と言っていたらしいんです。

その話を聞いたとき、応援してくれた兄を逆に僕が応援して、コーチとして自分が身につけた技術や知識を兄に全て注ぎながら、二人三脚でパラリンピックに出たいと思ったんです。卓球があって今の人生がある、その卓球に出会えたのは兄のお陰で、恩返しをしながら家族も喜んでくれる。そういうことって普通じゃ絶対にできないなと思ったときに、ストンッと落ちて覚悟が決めれました。

めがね男子の為事 File: 003 立石イオタ良二

お兄さんが「弟を大学に」と言っていたことを聞いて、どうでした?

立石イオタ良二全部が繋がりました。なんで好きだった卓球で大学に行かなかったんだろうとか。お金のことは気にはしていましたけど、なんでそんなに簡単に諦めてしまうんだろうとか。

パラリンピックに出るのもお金がかかるから…。

立石イオタ良二そうです。兄は高校生の終わりごろに障害者卓球と出会ったんですが、パラリンピックに出るための費用のことを知って「結局世の中カネかよ」って一度卓球を辞めてしまったんですよ。

支援などはなかったんですか?

立石イオタ良二はい。兄と一緒に海外遠征に行くようになったときに知ったんですが、若い選手も年配の選手も、みんな自分たちでなんとか工面して大会に臨んでるんですね。どうにもならないんです。当時は“東京オリンピック・パラリンピック”も決まっていませんでしたし、管轄が厚生労働省と文部科学省で健常者のスポーツと障害者のスポーツで別でした。そもそも日本でのパラリンピックの発展が“リハビリ”という概念から来たもので、スポーツとしてそこにお金をかけられない状況だったんです。

その状況を改善するために家の仕事をしながらコーチをして、日本肢体不自由者卓球協会の広報までされているんですか?

立石イオタ良二そうですね。一番「ちゃんとしないと」と思ったきっかけが、スロベニアの大会で見た両腕がない選手。どうやって卓球やると思います?

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